畳
日本人の暮らしと深いつながりのあるい草と畳ですが、日本人はいつからい草を暮らしの中で使用し、畳へと発展させていったのでしょうか?

日本のい草と畳の歴史を紐解いていくことで見えてきたのは、先人たちが生み出したサスティナブルな知恵でした。

私たちの暮らしに新たな視点を見出す、日本のい草と畳の歴史をご紹介します。

畳の原料、“い草”はいつからあるのか?

畳の原料である“い草”は、古来より世界中に自生していたと考えられています。その種類は300種にも及ぶとされており、日本のみならず、中国、インド、アメリカにも存在したようです。
い草畑
(い草が栽培されている様子。これらが製織されて、畳になる)
人類は古来より、自然から与えられた資源を元に衣食住において必要な「モノ」を作り出し、生活を営んできました。畳も、そのようにして誕生しました。日本人は自分たちの生活をより快適なものにするために、い草を使った敷物を生み出し、畳へと発展させていったのです。

では、いつから日本人は、い草を敷物として使用するようになったのでしょうか?

それは、弥生時代ごろと考えられています。弥生時代の遺跡から、棺に入った人骨と一緒にい草の筵(むしろ:敷物のこと)が発掘された例が多数あります。埋葬の際に遺体を包むものとして使用されていたようですが、筵の大きさ的にも敷物として使用されていたのではないかと考えられています。
弥生時代のい草
(弥生時代の遺跡から発掘されたい草の筵の破片)福岡県のい業誌より
弥生時代はそれまでの狩猟生活から農耕生活にシフトチェンジをした時代。日本中を歩き回って獲物を求めた「移住生活」から一定の土地に居を定めた「定住生活」に変わった、いわば大変革の時代でもありました。この時代の変化によって日本人は自分達の「家」を持つようになり、衣食住の「住の文化」が誕生したのです。

家の中で快適に過ごすためにはどうすればいいのか?当時の日本人はそのように考えた結果、い草を敷物として使うようになったのではないでしょうか。
弥生時代の暮らし
(弥生時代の暮らしのイメージ。人々は家を持ち、農業で生活を営んだ)

畳の誕生

い草の敷物は、床つきを軽減するために次第に厚みを増していきました。最初はただ敷物を重ね合わせていただけでしたが、バラバラになるのを防ぐために縁を布で縫い合わせるようになりました。これが、畳の原型となりました。

奈良時代に建てられた正倉院からは、世界最古とも言える畳が発掘されています。
御床畳
(正倉院から発掘された畳。現在のシーツ代わりに使用されていたと考えられる)
この畳は御床畳(ごしょうたたみ)と呼ばれ、天皇が就寝の際に使用された御床(ベッドのようなもの)の上に敷かれていたとされています。

また、日本最古の書物「古事記」からは「畳」の記述を見ることができます。

皇族ヤマトタケルが船で海を渡っている際、その海の神様の怒りを買ってしまい、船が転覆しそうになります。その際、后(きさき:妻のこと)が神様の怒りを鎮めようと、海の上に畳を敷いて神様の目の前に赴き、怒りを鎮めたといいます。

この2つの事実から考えてみると、少なくとも奈良時代(西暦700年前後)には畳が存在していたことが分かります。

ただ、当時の畳は現在のように(とこ)が付いた頑丈なものではなく、折り畳みが可能な、現在のい草のカーペットのようなものであったと言われています。

絵巻物などにも、当時の畳と見られる絵が散見されます。
北野天神縁起
(当時の畳。このように丸めることができた)北野天神縁起より
この頃の畳は、都の皇室で神事や来客の際に持ち運んで使用していたようで、先の御床畳からも分かるように、いわば権力の象徴として使われていたようです。

い草・畳産業の発展

鎌倉時代になると、折り畳みが可能だった畳に床が付けられるようになり、現在の形へと進化。畳は持ち運んで使うものから、置いて使うものになりました。
松崎天神縁起
(先の畳と違い厚みがある畳。敷き詰め型ではなく、置いて使用していた)松崎天神縁起より
最初は位の高い人が座る場所に置いて使っていた畳ですが、室町時代には現在のように敷き詰めて使うようになりました。畳表を販売する商人も、この頃から誕生したと言われています。

長きに渡る戦国時代を経て江戸時代になると、「畳奉行(たたみぶぎょう)」と呼ばれる職人が誕生しました。畳奉行は城に敷いている畳の製造や管理を行ういわば官僚のひとつで、衣食住のみならず、幕府の権威を守るための職業として重宝されました。
近世職人尽絵
(江戸時代の畳奉行たち)近世職人尽絵より
それまでの戦乱の世と打って変わって、天下泰平の世となった江戸時代は、農業としてのい草栽培にも影響を与えました。

農具の発達や生産技術の向上により効率化が進んだ江戸時代の農業。それまで自給自足のために農業を行っていた農家の方たちの間には、農産物を売買する余裕が生まれ、い草の栽培や畳表の製織が全国で盛んに行われるようになりました。全国で生産されたい草や畳表は江戸に送られ、畳奉行の手によって畳として製品化されていきました。

明治時代になると身分制度が廃止され、庶民たちは自由な商いが可能となりました。それまで貴族の象徴であった畳も、庶民の間に広まることとなり、農家の方たちも自分達で織った畳表を販売するようになりました。組合や企業も多く作られることとなります。

また、織機(しょっき:い草を織る機械)の改良も進められ、畳表の大量生産が可能となり、畳産業の発展はより著しいものとなりました。
高井良式足踏織機
(大正時代、当時の最新の織機、高井良式足踏織機で畳表を織る女性。一人で織れることが画期的だった)

日本の伝統文化へ

国内需要が高まっていく畳でしたが、明治から戦前にかけて、実は海外への輸出も行われていました。畳を海外へ輸出していたのか?と思われるかもしれませんが、この頃輸出されていたのは畳ではなく、畳表の上に柄を手作業でプリントした捺染花筵(なっせんかえん)という物。
捺染花筵
(捺染花筵の実物。鮮やかな柄が人気を博した)福岡県い業会館所蔵
捺染花筵は、通常のカーペットに比べて安価に手に入れることができる上、デザインもオシャレなものが多かったため、カーペットの代用品として大変な人気を博したといいます。ピーク時には90カ国にも及んで輸出されましたが、戦争の影響で輸出は中止となりました。
花筵検査所
(輸出する花筵を検査する様子。福岡県大木町で明治頃に撮影)
終戦を迎え、高度経済成長期を迎えると、国民の所得は倍増。国内需要が再び拡大し、い草製品の生産も盛んとなりました。福岡、熊本、岡山、広島、高知を主に行われたい草栽培は、ピーク時には5県合計で8,000ヘクタール(東京ドーム1711個分)まで広がりました。

現在、国内のい草栽培のほとんどは熊本県で行われています。住宅環境の変化による影響で、国内のい草栽培と畳の製造は減少傾向にあるものの、畳だけに捉われない、い草を使ったインテリア商品は数多く作られています。また、日本の伝統文化「TATAMI」として海外からも注目を集めるなど、日本の畳を見直す機運も見られています。
い草ラグ
(フローリングに敷かれた鮮やかない草ラグ)
このように、日本の一大産業そして伝統文化にまで発展したい草と畳。その発展に寄与したのは、ひとつは健康ない草を育む日本の肥沃(ひよく)な土地と清らかな水による地の利、もうひとつは、暮らしをもっとより良いものにしたいと考えた、先人たちの知恵と努力によるものだと思います。

い草と畳の歴史を紐解いていくと、今ある資源を最大限に活用することで生活を豊かにしていくという、サスティナブルな考えを見つけることができます。今一度、日本のい草・畳文化を見直すことで、これからの私たちの暮らしのあり方に新たな視点を見出すことができるかもしれません。
い草ラグ
最後までお読みいただきありがとうございました。
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Tomohiro

地場の仕事に興味を持ち、イケヒコに入社。当初はい草の“い”の字も知らなかったが、今では2LDKの賃貸に置き畳とい草ラグを敷き詰めるほどのい草好き。もちろん布団の上には寝ござ。将来の目標は柴犬を飼うこと🐶